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ひと


 
「スタイル」を見てかっこいいと思い、
「センス」を感じて共感し、
「行動」や「発信」を"視"て感心し、
「暮らし方」や「生き方」を見て尊敬する。

そんな経緯で、自然と近づいて繋がって仲良く成ることが出来た人、先輩。

そういう人が存在していることが大事であったり、共感して、感心して、尊敬して、

真似から始まって、自分自身のやり方に転換し、消化していく。

そんな生き方をして行きたいと切に願う。

なんつって、とにかく楽しく遊ぶように身体動かして、いっぱい飯食って

生きていけるこれからにしたいなと。

とにかく、面白いなと思える人達となるべく時間を共有していった方が

楽しい後半戦。なんて思った。

動くべし。


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泰三さんへ捧ぐ


泰三さんへ 

泰三さんがいきなり入院してしまったのは2年前の2月。2015年の年末に一緒に飲んだ時は、オールバックでバッチリ髪型もキメたいつも通りのかっこいい泰三さんでした。それから1年弱の闘病生活から復活した時は、「やっぱり泰三さんらしいぜ!!」ってなんつって、バリカンズのみんなとシトラスで回帰祝い出来たことももうちょうど1年前です。。なのにまさかこんな日が来るとは、思いもしませんでした。また復活するって思ってた。長かった闘病生活、すごくよく頑張ったね。

1、出会い
泰三さんとの出会いは、奥さんのサッチンがマネージメント事務所(ピカデリー)を立ち上げた時だったと思います。
その時は泰三さんのことはよく知らなくって、カメラマンの地主さんの紹介で、とにかく美人なマネージャーだっつうことで、「是非入れて欲しい!」ってお願いして、一番目にスタイリストとしてピカデリーに入れさせてもらいました。
その当時は、美人なサッチンにばかりに目がいっちゃってて、泰三さんのことはあまり気になっていなかったように思います。


2、マンション
その後、俺も結婚して、泰三さんたちの住むマンションに引っ越したことで、一気に仲良くなれたんだと思う。ぴったり一回りも違うのに、タメ口で話せるぐらい仲良くなれました。
漫画の「めぞん一刻」みたいな、クセの強い人ばかりが集まっているマンションの生活はとにかく特別でした。泰三さんとこのジョーとうちのリンが同級生になったってことも大きかった。マンションだとしても同じ屋根の下の、同じA棟で過ごせた6年間は大家族みたいでとても大事な思い出です。。。

俺たちがマンションから引っ越してから、リンが泰三さんちに泊まりに行った時、飯茶碗の持ち方を注意されて正しく教えてくれたってことをリンから聞きました。40過ぎてもまだずっと自分のことばかり考えてるガキみたいな俺にも、もっといっぱい叱ってほしかったなあ。なんて思ってみたりもしちゃいます。。。。


3、バリカンズ
同じ屋根の下に住むことで、音楽や映画とかファッションの事とか、ジャンクで美味い飯屋とか、かっこいい床屋さんとか、幅広くいろんなことに詳しい泰三さんをすげえなあと思ってました。毎晩呑みながら「ファッションはカルチャーから生まれるモノ」だっていうことを教わっていって、そのカルチャー自体を作れたらすげえかっこいいよなあ」なんて酔っ払っては、泰三さんに絵を描いてもらいながらイメージを膨らませていって。それでバリカンズを立ち上げることになったんだよね。

そんな泰三さんは俺に、「トラック野郎」の面白さとか「寅さん」の面白さだとか、昭和の日本人のかっこよさを熱心に教えてくれてたのに、その時の俺には、まだそこまで理解出来ていなくって、半分以上聞き流しちゃってました。。
その後「トラック野郎」と「寅さん」を見る気になって、やっと泰三さんが言ってたその面白さが理解でき、泰三さんの考えるバリカンズとが繋がりました。

主人公の菅原文太を見てたら、昔、泰三さんに見せてもらった高校時代の修学旅行の時の写真を思い出して、同級生はみんなリーゼントなのに、泰三さんだけ、角刈りにしてて、菅原文太を意識してたんだなあってことがわかって。あの頃から人の真似はしない独自のスタイルを磨いていたんだなってやっと理解出来て。。。。

泰三さんとトラック野郎を一緒に観れていたら、もっと仲良くなれてて、バリカンズももっとかっこよくなってたのかもしれないなって。。。。
後悔が止まりません。

4、友達の多さ

泰三さんにはたくさんの友達がいます。泰三さんは先輩も後輩も分け隔てなく、いろんなところに顔を出し続け、いろんな友達をいっぱい作り、友達をとても大事にする人だなあと。俺は横目で見ていました。俺の苦手なことを全て持っている、超ポジティブで明るくて、さりげなく優しかったり甘え上手でもあって。だけどちょっとだらしなくてずるい人。それがみんなから愛される泰三さんなのかなあって感じてました。


5、最後のスタイリング
最後に。今日、初めて泰三さんをモデルにスタイリングすることができました。泰三さんが入院中にデザインした鯉口シャツに、ニッカボッカを合わせて、泰三さんが大好きな腹巻きを着せてみました。腹巻きで隠れているのだけれど、このシャツにはチェーンのデザインがプリントされています。泰三さんは「友情を繋ぐチェーンの意味でもあるんだぜ!」なんて言ってました。今この場所で、泰三さんの友情のチェーンが繋がっているんだと強く感じています。沢山の先輩方や後輩の友達が泰三さんに会いに来ているから。我ながら泰三さんらしいスタイリングに仕上がったなって気に入っています。
腹巻きが似合いすぎてて、ただ眠ってるようにしか思えません。出来れば。。。。
ドリフのコントみたいにいきなりムクっと起き上がって、「冗談だよ〜ん!ば〜か!」ってみんなに向かって言って欲しいです。泰三さん。

ありがとう!!一番星桃太郎みたいな 泰三さんへ。

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骨髄バンク 

 

 聞いた事はあったけど特に感心はなかった。

そんな骨髄バンクという行為。世の中の白血病や血液疾患の人の為に健康な骨髄を移植して
その人の命を助ける為のもの。

なんとなくは聞いて知っていたけれど、やはり感心はなかった。

だけど、大事な友人、バリカンズの仲間内にその骨髄が必要となってしまったのだ?!

その友人の為に自分の骨髄を提供出来ないものか?!
知識も無い自分は近所の大きな病院に行って医者に相談してみると、そんな簡単なことではないらしい。

その患者に対して、骨髄が適合する人を見つけるってことは何万人に1人の確立だったりするそうで、自分や仲間内でドナー登録をしたからって、その友人を助ける事はすんごい稀な事だってやっと理解した。

けど、バリカンズでもあるベイブルースアイアンワークスのタクミ君が声をかけてくれて、兎に角、渋谷にあるハチ公前献血ルームに行こうぜ!と言う事となった。そこで二人で、ドナー登録をした。

その友人がきっかけで、自分らでも、どこの誰に?かわからないが、同じように困って辛い思いをしている人たちが存在するのであれば、役に立つ事って重要なんじゃねえか?って考え方を持つ事が出来た。

かといって、骨髄バンクにドナー登録といっても、登録自体はすごく簡単だけど、その後にはとても難しい課題もあって決して気軽なものではない。誰かにお勧めするものでもないかもしれないけれど、仲間内では話し合ってみたいと思っている。




血を採血してもらってから、とりあえず渋谷の焼き鳥屋へレバーを食いに行きましたとさ。


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受付のお姉ちゃんを選んで指名して写真を撮ってもらう。


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 スタイリストとして独立したのは、ちょうど2000年4月だった。
そこから、約1年ほど一人で活動してきたけれど、お陰様で忙しくなり、
アシスタントを募集した。
 その時、はじめにやって来たのが岡正己くん。文化服装学院を卒業直後に僕に就いてくれた。

彼が入ってから、怒涛の毎日。スタイリストとしては一番忙しかったんじゃないかってくらい、たくさんの様々な大小の仕事をこなしてきた。

そんな自分にとっては超多忙な時期の相棒が岡正己くんだ。
今思えば"師匠"なんて言える立場でない自分は、教育というのがまともにできていなくて、
とにかく正己くんは、野生児的乱暴な師匠を抱えて大変辛い想いも味わったかと思う。

でも彼は、師匠であるアホな自分との、対応の仕方、仕事の回し方、をろくに教えもしなかったのに自ら探り当てて、見事仕事をこなしてきた、とても信頼のおけるアシスタントだった。

 僕はあまり社交性が無いのだけれど、彼の社交性にはとても助けられた。"スタイリスト岡部文彦"が良い仕事を維持してこれた理由は、お互いを補える相性の良さだけではなく、彼のキャラクターそのものに助けられたから。今思うと、それが大きかったなとつくづく思う。

そんな正己くんは、6年前スタイリストを辞めて、地元前橋に戻り、ラジオ局の立ち上げメンバーとして、地元を盛り上げるべく様々なイベントを企画し、地元の若者たちと一緒に活動しまくっていた。

スタイリストを辞めると聞いた時は少し寂しかったけれど、
地元を盛り上げたいとは以前から話していたし、納得もした。その後はSNS等で、彼の活動は眺めていたし。社交性に長ける正己くんらしさが表れていた。

そんな正己くん。「岡まさみ」と名乗り、今週末に投票日の前橋市議会議員選挙に出馬することに?!

いつかはそんな日がやってくるんじゃねえかとは、思っていたけれど、こんなに早いタイミングでやってくるとは。。


そんな行動力ある人間が、自分と一緒に働いてくれてたってことがとても誇りなのだ。
一緒に、面倒だと感じる仕事も、面白いと思える仕事もたくさんこなしてきた間柄なのだから。。

だから、そんなファッションの世界で仕事をしてきた岡くんが政治家になろうとしているって、結構とんでもないことだなってつくづく思ってしまう。

なので、どうしてもなってほしい。当選してほしい。

こんな正己くんが当選することができたなら、日本も良い国になっていける可能性があるのかもしれない。

二つ目の映像では、

「知っている人は良く知っていて、知らない人は全く知らない!」

と自分の事を紹介してくれている。(3:14辺り)素直に嬉しい。


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こんな人になりたいものです。

泰三さんから教わった、菅原文太。

そこまでこの人のことをまだ知らないけれど、

同じ東北人だということだけは知っている。

トラック野郎も思っていた任侠な感じではなく、かなりコミカルで最高だった。

このコメントはご本人が書いたものなんだろか?

とてもいい言葉だ。

胸に響くってやつだ。

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「何でもかんでも人に聞くな。」

これはやれている気がするけど、聞かなすぎて、
うまくできなかったり、勘違いしてやってる場合が多い。

「正々堂々間違えろ!」

これこそ胸に響くな。人前で間違えることを
とてもおっかなくなっていることには間違いない。

これこそ習得したい部分である。

菅原文太 かっこいいな。

教えてくれた泰三さん。ありがたいぜ。

快気祝い

  うちの義母さんが年末に入院して 年始の12日にやっと退院ができた。およそ47日間の絶食、点滴の生活から復帰した。

うちの奥さんは、高齢の義父さんの身の回りのお世話もしつつ、病院へ通っていた。
一日置きで実家の津田沼まで通っていた。

そんな年末年始。お正月はもちろん津田沼で過ごしたけれど、
義母さんは大晦日と元旦の2日間、お昼から夕方までのみ外出許可(2回)が出て
、家族で新年を祝うのは8時間のみ。飲み食いもできず、お茶っこのみですごし、寂しい新年であった。。

そんな義母さんも退院から一ヶ月が経ち、快気祝いをしたいと、自ら誘ってくれ、
今日は電車で八千代まで行って、老舗らしい蕎麦屋さんで懐石料理を食いながらの快気祝いを催してくれた。
お昼から、義母さんの姉ちゃんのクニコおばちゃんと旦那さんの青木のおじさんと
一緒に昼からお酒を飲んで、話を楽しんだ。

もちろん義母さんは酒は飲めなかったけれど、快気祝いってのは何気に初めてだったし
なんか気分がよかった。

いつもは車でプイ〜っと行くから、電車は二度目で、東西線で意外と乗り換えも少なく
簡単に行けたし。。。車もいいけど電車もいいな何て思った。。

義母さんはやっぱり、岩手出身ってのがあるから、何かと仲良くさせてもらっている。
一度結婚したての時に、思いっきり怒られたことがあって凹んだけれど、今でもタメ口で
仲良く話せているし、南部鉄瓶の職人の娘というのもあり、意気が良くって、ギャグも飛ばすし、面白くって自分は義母さんと接することが好きだ。夫婦喧嘩のひどいのをやった時も義母さんに相談にのってもらってたりしてたっけな〜。。

そんな義母さんの入院でちょっとでも弱くなってしまった姿を見て、寂しくなったし、
現実も考えさせられた。
自分らにとっては、意外にも早くこういう状況を味わうとは思ってもみなかったけれど、
必ずいつかは誰しもが味わうわけだし、もっと若いうちにその辛さを体験している人も少なくないのだろう。

うちの親も今はまだピンピンしているが、いつどうなるかわからんし、自分だってそうだ。
元気なうちに稼いでおかなければ家族が大変になる。いつ死ぬかもわからないから、

生命保険は入っている。

そんなことをやっと現実的に考えさせられた年始であった。

今のうちに義母さんたちともっと接していっぱい吸収しときたい。それはとても重要なことだと思った。戦前を知っている数少ない身近な存在だからだ。



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昼間の東西線のグリーンのシートが誰もいないっつうのもあってか素敵にみえた。
快速は非常に良く揺れ、読書を妨げたけど、快晴だったし心地よかった。
大きな川を越えての千葉へ向かう風景は気持ちよかった。




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さわ田茶屋という歴史あるお店らしく、
なんとかの宮殿下の別邸を譲り受け移築した建物なんだとか?
庭には池があって錦鯉なんかもいて風流であった。庭師をしている青木のおじちゃんは
感心して庭を眺めておった。


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最近では当たり前に、思わずピースをしてしまうが、行きしなに読んでいた
みうらじゅんの万博世代はピースではこっぱずかしくってイヤミの「シェ〜」ポーズがお決まりだったとか。。俺もこれからオリジナルのポーズで決め込みたいと切に思った。


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立派な漆塗りのお椀が出てきて.....。こっそり持ち帰りたくもなった。イケてる!


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室内には様々な「書」が飾られていて、トイレの額にはこんなメッセージが。。。
考えさせられながらも、小便を便器に向けて発射していた。
俺様は聞かず、喋り捲って、何言ってるのか抽象的で、思いは強く聞こえるが伝わらない。
行動に出ようと思う。

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北国の血筋である。千葉になんか住んでいないで、みんなで岩手に帰って暮らしたい。
何て思ったりもして。。。


 知り合ったのは3年前だっけな?
たしか、我が作業場で「フリマひとり」やった時にお客さんとして来た時だった。
あまりお金も無さそうだからって、結構オマケした気がする笑。
話してみると、実はスタイリストなんだと打ち明けられ、それから
何度か自分の仕事を手伝ってもらってから、今でも定期的に助っ人して一緒に仕事をしている。そんな斎藤良介は今年で26歳。
パートナーシップを組めた事で、二足のわらじ的な仕事になった今のスタンスでもスタイリスト業務をこなせるようになったのは相棒のお陰。

もう一人、パートナーシップをとっている人がいて、肩書きはマネジメントだけど、スケジュール管理や仕事の応対だけではなく
メーカーとの商品企画会議にも同行してくれる、半ば自分の通訳的立場笑。

自分がスタイリストアシスタントをしていた頃に、リース先のセレクトショップで知り合った工藤さん。同じ血液型で同じ誕生日ってことから仲良くなり、当時よく遊んでいた姉さん的な存在で、現在、まさか仕事のパートナーとして一緒にお仕事をするとは思いもしなかった。

そんな仕事仲間が2人も居てくれることによって自分もどうにか仕事をこなせている訳で。。。

5年ほど一人で仕事をしてきたからか?今頃になって一緒に仕事を共にするパートナーってとても重要で有難い存在なのだなと思い知らされた。

なかなか気の合う性格の仕事仲間と出会うことは非常に難しいのだけれど、自分はなんかその辺の運が良いのだと思ってしまう。

気が合うからやりやすい。偶然ではないと勝手に思っている。

この二人と我がオカベスタイルラボとして質の良い仕事が出来るように成りたい。


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一見間抜けな斎藤良介。だいぶオシャレになってきた笑。
顔も薄いが裸になると、胸部もだだっ広く高低差のない薄さ。
サイトウ平野と呼んでいる。千葉県我孫子出身。


酒を飲み交わすのは何ヶ月ぶりだろう?

下手したら半年経ってるんじゃないのか?

そんな友達と、久しぶりにサシ飲みした。

彼とはちょっとした件で仲違いになって

しばらく会っていなかったんだけど、

俺から、誘いを入れて(極稀也)2度目の誘いでやっと会うことができた。



久々の再会に適当な雑談をしながらも、タイミング見計らって、

相手から、その「事」の発端を切り出してくれたお陰もあり、

しっかりと話し合い、改めることができた。

しっかりと和解が出来たかは解らないけれど、

昔と変わらない感覚で酔っ払い「またね!」と改札口で

ぎゅっと握手を交わすことはできた。


時が経ちすぎていたけれど、我ながら長〜い間、その"わだかまり"が、

小さな溝の一つとなっていて、ずっと心の片隅に引っかかっていた

のは間違いなくて。。。。



だから今日は自分にとって、その溝からどうにか攀じ登って

上に這い上がれた気分で気持ちよく家路につくことができた。


仲違いなんて、すべての人が味わう自然な事であって、

いろんなところでぶつかって、つまづいたり、

失敗したり、頑固になったり、喧嘩して、離別したり、


人間だもの



相田みつをのツッコミばりにそんなことは誰にだって

よくある日常の一片なのだろうけれど、

そのままにしないでちっちゃなことでも

一つずつ解決していくがとっても大切なんだと、思い知った今夜。

酔っ払ったパワーのお陰も多大であるけどね。てへ。

「仲」とは"人"の"間"にとってとても重要なものなり。

これぞ「人間」。なんつって、

今夜は気持ちよく爆睡できそうだぜ!イエイ。



本間さん飲み会

2年も前になるであろうか?

ネペンテスWEBSITEのRemixというスタイリストがディレクションをして

ネペンテスの洋服でファッションフォトストーリーを撮り収める

WEBページにて、SSPショールームの徳郎さんからお仕事をいただいた。

パートナーはカメラマンの鈴木新。
自分は「渓流釣り」をテーマに掲げたい旨を伝えロケ撮影する事になった。

なんでかって理由の一つに、ネペンテスのボス清水さんが渓流釣りが
趣味であるということを知っていた為っつうこともあり、
新も自分も子供時代に経験値のある趣味をファッションストーリーで
撮り収めてみたかったからっつうのもあった。

そんなファッションストーリーのモデルには、
リアルなフライフィッシャーマンが必要だね、って話になり、

アウトドアコンセルジュのヨッシーこと吉田豊さんに紹介してもらい、
知り合ったトッシーこと戸館俊彦氏。

 (FIXENDというフィッシングウエアを作っているアウトドアウエアデザイナー)

彼はジャパンフィッシャーズの会員だったので、モデル探しに
協力してもらい、JFFに所属している人の中からモデルをしてくれそうな
"渋い人"を探し当ててくれた。
そこで知り合う事が出来たのが、本間雅男さんなのである。

そんな、本間さんにハマる、ネペンテスウエアのスタイリングを作り、
車に積んでいざ2泊3日で、秋田県の渓流と、宮城県の荒雄川まで出向き
ロケ撮影を敢行。

本来はシーズン中に撮影したかったのだけれど、
禁漁に入った10月のロケ撮影だった為11月末まで釣りが出来る
荒雄川まで出向いたのだった。

それで、出来た作品が、「ワンダーザリバー」で、
本間さんでなくては成り立たない作品となって、我ながら
今までこなしてきた仕事の中で今でも一番気に入っている。

本間さんは、「アウトドア」という言葉を日本に持ってきた
第一人者であり、日本のアウトドアシーンに多大な影響を与えた
芦澤一洋さんと深い親交がある方で、会社員でありながらもJFFで
結構な任務をこなされていた人。

僕らなんかにわかフライマンが知り合える事ができるような人では無いのだ。

って、前にも熱く語った気がしたけれど。。。

あれから2年経ち、先々月、雑誌HUNTのモデルもやっていただいたこともあり、
本間さんを囲み飲み会が開かれた。

てか、我輩がセッティングすべき立場なのに、気が利かないから、ご本人自ら、我々をFB上で4人を誘ってくださり、大好きなビールで乾杯した。



自分も、今年はやっと渓流釣りにハマりまくったこともあり、
皆で再開するにはいいタイミングであった。

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写真戸館さん。 左、カメラマン鈴木新、中本間雅男さん、右 毛無垢者ら)


キクケン


高校時代の担任の先生だった、キクケンこと、菊地健一先生が
地元盛岡のギャラリーで個展を開くと、同級生の綾子から
わざわざ連絡があったのだけれど、行くことが出来ず、
写真だけでも送ってもらった。

さすがに白髪は増えたが、相変わらずのご様子であった。

とても会いたかった。

今の自分が、こうやって東京に住んでいるのは、このキクケンの進路相談の
一言であったから。

臆病者な自分の中に、東京に上京する何てことは少しも考えていなく、
せいぜい仙台あたりのインテリア専門学校にでも進学しようと
考えている旨を話すと、

「お前みたいなのは、東京に出た方がいい!」とはっきり物申されて、
言われるがまま、なんの希望もなく、東京の印刷会社に就職したのだけれど。。。

2年程勤め、バンタンという学費が高いクソみたいな専門学校に進学しつつも、
冬さんというスタイリストのアシスタントに就くことが出来、
晴れてスタイリストとして独立することが出来た。

スタイリストという仕事で、いきなりメンズノンノなんていう
トップメンズファッション誌の仕事にありつけたことは、
運が良かったとしかいうほかあるまい。冬さんに就ていたお陰だし、
他媒体からも仕事の依頼が来た理由もメジャー雑誌で下積みをしてきた
お陰なんだと改めて思った。

その後色々あったけれど、今こうやって、東京という土地に暮らしけている
原因は、キクケンの一言がでかい。

当時はなんとも思わなかったけれど、今は改めて思う。

先日の個展に行かなかったことを後悔している。

改めて、タイミングを見計らって、会いに行きたい。

キクケンと話がしたい。

確か、当時高校生だった頃、彼は登山部の顧問をしていて、
登山の全国大会で優勝した経験があったはずだ。そんな記憶が残っているのだけど、
当時、全く山登りなんて興味がなかった自分が、今思うと、
勿体なかったな。。何て思ってしまったり。

その辺も含めもう一度ゆっくり酒でも飲みながら話ができたら幸せだ。


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写真 沼田綾子

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