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感覚的におもうこと

自然ってなに?


自然ってなんなのか?

いろんなところで、遊んで来て、暮らして来て、みて見て視て来て

自分なりにはよくわかったつもりだ。

その自然ってなにか?をよく理解していない限り、

これから時代、生き抜いていくことはできないんじゃないか?

と思ってしまうのは俺だけだろうか?

自然 ってなに?

うちの子供もわかってるんだろうか?

どうやったら上手いこと理解してもらえるんだろうか?

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佇まいとは?


「佇まい」 なんて自分でもよく文章を書くときに使ってしまう。

最近では『日本ボロ宿紀行』なんてブログ本がドラマになっちゃうくらいの勢いで、

その「佇まい」ってのは、風景の雰囲気であって、特に、建物の風情に使われる言葉?

なのかな?

昭和っぽい建物
とか、
木材の朽ちた感じ
とか
道端に生えている花が適当な配置で地面から生えている様
とか?

そんなのを視て、あ〜と感じ入ったときに言いたくなる言葉。

今日は宮古にある古い銭湯の天井を見ていて、その朽ちた感じに

いい佇まいだな〜とボケ〜っと眺めていた。

ふと、ブログに載せた養老孟司のユーチューブを思い出す。

養老さんが言っていた、自然についての定義に繋がっている気がした。

決して、綺麗ではないその天井のカビだとか、汚れ?を見ていて、

いいなあと思った理由は、自然だからだ。

時が経って、本来なら清潔感ある綺麗に磨かれた天井にしたいであろう

店主の気持ちも察するが、その、なかなか改修出来なくって、
放っておいてしまっている様に良さと趣を感じた訳だ。
時の流れも感じる、いい具合の汚れが逆に

「自然」を感じさせてくれた。

要は、「自然」とは「中立にあるもの」と言っている養老孟司の言葉の通り、

人が作った不自然なもの(人工物)と自然の間と言ったら良いのか?

その人工物の自然の有り様が、この天井の汚れなのだ。

「佇まい」とは、自然の成り立ちあってこその、かっこよさというか。なんちゅうか?

佇まい="自然のスタイリング"とでも言おうか?

(カッコつけた言葉はカッコ悪いな。。。。)

言ってることがほぼ全て共感しかない。


自然=中立 

ってことはとても勉強になった。

「都会」がダメで「田舎」がいいって訳でもはなくて、自然が求められている。今。

なおさら。今。

確実におかしくなっている現実。コロナだって自然。

それに対してアタマでっかちになり過ぎちゃってる世の中の人人。

自然に相手にしてもらえば、わかることがたくさんある。

こんな状況でもどう暮らせば良いのか?

田舎の山奥で自然と共存して暮らしてきた、ばあちゃんもじいちゃんも

テレビのおかげで影響うけちゃっているのを

見ちゃうとなんとも言えない気持ちになる。

もっと自分で感じて行動しようと思う。




「不便利」という言葉があるみたい。

テレビで見た。しかも最近だ。まだ東京にいる頃だった。

今の家にはテレビがないし、ネット環境はまともだけど、
ネットニュースすら気にならないほどに見ていないので、
リモート打ち合わせの合間とかで「東京はまた感染者が増えましたよ」
なんて溢れ話で聞いていて「へええ」としか言えないくらい山の生活に
マスクは不必要だ。
いきなり話が脱線している。マスクのことでなくて不便のこと。

テレビがなくってもネット環境さえ繋がっていればもう既にどこだって
便利な世の中。

すでに誰もが気がついていた話なのだろうけれど、インターネットさえ
繋がる環境でいれば、都会っ子だってもやしっ子だって、女子だって、
どこででも住めちゃう時代。
虫とか獣がイヤでなければ。。。
なんてそんな虫にも慣れる日がきっとやって来るかとも思うし。

岩泉での山暮らしをはじめた時はまだ2週間待機中だったので、
なおさら感じたことは不便って良いなって思えたことである。

来る前にみたテレビ番組はその不便を「不便利」って
言葉で京都大学の教授様が掲げて特集していた番組だった。

確かに言ってる内容は面白かった。

とにかく自宅待機で、外には出られても、近所の人とも接することはできないし、
スーパーに買い物に行くこともできない。
なおさら、車がないと買い物なんてできる場所ではない山の中。

移住担当の人にお願いをして、頼んだ食材を買ってきてもらい、
その中から食事を作らないとまともなご飯が食べれない。

山暮らしスタートが待機生活だったってのは逆に良かったと思っている。

その家から一歩も出られない山の中でも自粛生活ってのがいかに不便か?
ってことを思い知らせてくれたのである。

待機中は質素な食生活。
それ以外は、あてがってもらえた古いアパートを徹底的に掃除してみたり、
暮らしやすいように改修してみたりそんな生活で過ごしていた。
初めの1週間はネット環境も整っていなかったので、
携帯電話で友達と会話したりはできていた。

とにかく、買ってきてもらった食材で何か作らないとお腹を満たせない。
下手くそながらにも料理を作る。節約をしながら。。

で、待機生活もあと二日、なんて時にふと、唐揚げが無性に食いたくなってしまったのだ。
しかし、コンビニなんて行けないし、その前に近所にはない。
(町内で2件のみ)
世田谷暮らしの頃のように徒歩圏内ではお店がない。
(あとで近くに小さなスーパーが一軒だけあることがわかる。6時閉店だけど)

どうしても唐揚げが食いたくなってしまい、担当の人に唐揚げ粉と鶏肉と油を
買ってきてもらって、自分で揚げて食ってみた。

たいして美味くはないが、揚げ物っていう食い物の価値に感動すらした。

昔の暮らしってこんな感動することがいっぱいあったんだろうな〜、
なんてふと思い耽りながらも「不便」は人間の暮らしにとって大切だっ
てことを復習させてくれた。

唐揚げがきっかけとなったのだ。

これがまさに教授の言っていた「不便利」ってことなんだと思った。

不便最高。でも、マスクがなくても堂々と暮らせる、ただでさえ人が少ない
山暮らしだけど、

今は、都会の方が不便な生活なんじゃないのか?
なんて思えてしまっていたりもする。。

感染症は目に見えなくておっかないけれど、その目に見えないものに怯えながら
人との干渉も気をつけながら、コミュニケーションを取って行く。。
その方がよっぽど不便なのではないか?

それはこの山にももちろん影響は大きくて。
誰もいない畑を炎天下、おばあちゃんがちっこくしゃがみこんで
草抜きをしていたりして。
マスクをつけた格好で。。。。

メディアや噂の影響はでかいかもしれない。でも

自分で判断して、必要なのか?不必要なのか?考えて暮らしていかないと、

色々参っちゃうかと思う。

俺はマスクを外して、除菌もしないで山の中 堂々と暮らしている。
必要ないと思う環境だから。

先日、役場の会議に参加して久しぶりにマスクをしたけれど、息苦しすぎてきつかった。

改めて、

ぶっ倒れないでねおばあちゃん。と思った。

進むその先

ずっと迷っていた。 (スガシカオか)
東京に暮らし続けていくことは自分が本当に望んでいることなのだろうか?
もともと人見知りの我輩が、なんとなしに大都会に住み始め、
目の前に見えた道ばかりを進んでみたならば、いつのまにか今の地点までやってこれた。
会社員、専門学生、スタイリストアシスタントを経て、スタイリスト。
この時期が自分にとって華のあった暮らしの日々って感じだったのかもしれない。

でもなぜか?そこから道をずらして、アウトドアの世界に突入。
自分自身で何かカルチャー的な行為を始めてみたくなって
バリカンズなる活動も始めてみたものの。。。
そんな、"道から外れる" 行為は簡単ではない事がよく解った。

ひねくれた性格は、いつものように軽い気持ちで脱線して見ると、
思わぬ方向に進んでしまったりして。。。。

自分でも辛かったけれど、改めて、辿った地点(流れ)を見返してみると、
これはそんな間違ってもいないのかな?なんて思えてしまう。

進むべくして進んで来ているに違いない!
と思えるようになれたのは今頃、なんだと思う。

やっとである。

意識を変えられるように"馴れた"んだと思われ。。。。 

ファッションという華のある世界から、
アウトドアファッションをきっかけに、
どっぷりとアウトドアの世界に引っ張られて、
いつのまにかファッションが好きじゃなくなってしまっている自分もいた。
それは結構哀しいものでもあった。
自分が気持ちよく過ごしていた世界から引き千切られるような感覚。
でもそれは自らが望んじゃって歩んじゃって進んで来ちゃった道であって。。。

暗〜いトンネルを彷徨い続けているような感覚だったけれど、
なんとなく遠くに光が見えて来た、
そんなタイミング。

それが今だ。

我が地元岩手に住む。住み直す。

これからまた、第一歩目の暮らしが始まる。

暮らし研究


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子供の頃のような、感覚だけで『面白れえっ!』と思えるような外遊びを
試し続けてきて40も半ばになってしまった。
今までいろんな遊びを嗜んで来て

"外遊び研究所"

なんて雑誌連載まで掲げて10年やってきちゃったけれど我輩の場合、
プロにもなれちゃいそな「追求型」ではなくって、
一生素人的、広くて浅くて飽きっぽい「雑食型」でずっとやってきたわけで....。
でもそんなユルい姿勢だからこそSOTOKENも100回も続けてこれたんじゃないのか?
とも思える。
どんな「モノ」「ゴト」でもそうなのかも知れないが?
「外遊び」もヒトの性格それぞれこの2型に分かれるように思える。 

 追求するってことは、技を極める為の姿勢や継続があって、
やっとそのモノゴトを体得できるってわけで、誰にでもできることではない。
対し、我輩のような雑食型だといろんな遊びをただ広く浅く楽しむだけだから、
極めるなんてことは一生できやしない。でもそんな子供のような感覚型だからこそ、
面白く楽しめる面も充分にありえるとも思えるのだ。
その感覚こそがずっとSOTOKENで伝えたかったコトだったのかもしれないなあってのは、先日一緒に遊んだ友人カメラマン鈴木新と意気投合した話でもあって.....。


  そんな先日、そんな鈴木新とお互い初めてのテナガエビ釣りに出かけた。
とりあえずネットで調べた浅い知識で見よう見まねで試してみる。
アタリもポイントもいまいちわからないが、二人ともどーにか1匹を釣り上げることができた。魚類とは違うエビ釣り独特のアタリを味わった。それだけで盛り上がる。
次のポイントを探しに移動。
思い切って河口付近まで足を運んでみると水辺の抜け具合が広すぎて超絶気持ちが良い。
目の前には近未来的な羽田空港が淡くボヤけてはいるけど存在感がたくましい。
ど干潮の水際を歩いていると小さなボラっこが群れをなして岸際を泳いでいる。
その泳ぎに見惚れていると、突然「ボワンッ!」と水面に大きめの波紋が次々と現れる。
「これシーバス(の捕食)じゃない?!」
「やばいね」
「ルアー竿持ってくりゃよかったなぁ」
なんて話しながらもただ眺めているだけで十分に楽しい。
さらに今度は住宅エリアを散策してみると
「このエリアは殿町っていう(地名)らしいぜ?」
「なんで殿町なんだろ?」
さらに歩みを進めると、
「なんだよあれ?乳出し地蔵尊だって!ウケる!」
変な名前の神社を見つけてまた一つ笑う。
「なんとなく艶っぽいエリアだね〜」なんて笑っていると、
新が携帯で調べ始める。
新「特に理由はないみたいだけど、この付近は薬関係の実験会社が多いみたいだね。
動物実験の施設もあるっぽいよ?」
そんな会話が面白かったり....。

この時、二人で話したことは、
テナガエビ釣りって目的はあれど、エビ釣りばっかりってのじゃなくて、
その場その場で味わう土地勘も観察次第で面白いわけで....。
ぶらり旅的なテレビ番組みたいな嗜み、なんだけど。。。。
「水曜どうでしょう」なんて番組が流行った理由とおんなじなのではないかな?
あれは改めて思うところ「大人の外遊びの極み」な気がしてしまうのだ。

要は、目的(テナガエビ釣り)は明確でも結局は単なる
「遊び」
な訳で、そればかりに必死になるわけじゃなく、
もっと軽くてユル〜い感覚のまんまで、その全体の流れを"一つの遊び"として楽しむ....。
「テナガエビ釣り」だけが目的ではないのだ。
大きなテナガも釣ってみたいけど、そこが重要でもなく、、、と私は言いたい。 

 人生に置き換えたとしても、仕事ばかりじゃ辛くて仕方ない!
もっと人間らしく暮らして生きるためにも、
大変な作業もこれからもっと沢山あるだろうけれど、
遊びの感覚だけは絶対に必要なんだと我ながらに思う。
だから、これからも子供みたいに
遊んで生きたい!
自然のある外で。
それで逝きたい。なんつって。


死んだら自然に還してほしいな。 
お墓になんて絶対入りたくない、し、要らないとすらと思っている。

野生動物だって死んだら土に還るわけだから、俺もそうなって、
植物の栄養分になりたい。

粉末にして撒いてもらえれば、それは遺体遺棄罪にはならないらしい。

そんでもってもし生き返ったら、樹木になるのだ。
(本来の樹木葬ってのはそう言うことじゃないのか?)

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気になる 水害

 昨年も関東、長野の下流域でまたとんでもない水害が起こってしまった。

数年前に起こった広島岡山の大水害は、遠くの出来事でいまいちピンときていなかった。

近所の多摩川が越水してしまったことで、やっと自覚できるようになれたのが気持ちは正直なところ

そんなことも、渓流釣りを通じて山奥に足を運ぶようになってから気になっていたことではある。

今後もっととんでもない水害が起こってしまうんじゃないだろうか?!

自分たちが住む地域(流域)がどんどん削られていってしまいそうだ。どこに住んだら安全なのだろうか?

パタゴニアの広報加藤君を通じて、あるウェブサイトを知った。

そのウェブサイトの内容が今の水害の原因をつきとめているのではないか?

と思えるくらい、とてもわかりやすかった。

渓流釣りをしていると気になる砂防ダム。日本の河川にはとんでもない量の
砂防ダムがある。

流域の自然を考えるネットワーク


「砂防ダム」一見、調子の良さそうな、防災施設のように捉えられるが、そんな施設ではないことを実験とともに解説してくれている。

噂では、今回の「アナと雪の女王2」でもダムの問題がネタのようだ。

真面目にダムネーション。考えるべき な気がする。

多額の税金を使って作りまくってきた無駄なダムをぶっ壊した方が良いのではないだろうか?


小石


大体
大概
靴の中に
なぜか?

小石が

必ず入っている。。。

のはなぜ?


山遊びが好きになってから、山に住んでいる獣のことも知ることになって。。。

田舎育ちってのもあったけれど、クマは怖い生き物だと親父に教えられてきた。


近所の川に渓流釣りに親父と行った時、

「クマが出たっ!」と、大きく叫び、怒鳴りながら威嚇っぽいことをして走って行った。

よくも解らず、必死にひっついて逃げた経験があって。。未だに覚えている。。。



。。。それから、大人になって、渓流釣りを一人でも嗜むようになってから、

渓流釣りの先輩たちと接するようになってから、先輩たちにクマやその他、野生動物の生態などを聞いて「クマはそこまで怖いものではない」ってことを教わることとなる。


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有害鳥獣って何?有害なの?




そんな先日、福岡の砂防ダムに猪が落っこちてしまったものの、

鳥獣保護法だかなんだかで、人間は助けられないとのニュースが。。。。

人工的に作った砂防ダムに落っこちてしまったイノシシは助けられない

法があるという。

鳥獣保護法って何?

結局は、カラスであったり、人間様が作った田畑や人口物(農作物含め)を

壊してしまったり、

人間様に被害?を及ぼす鳥獣を駆除することは出来ても、

勝手(自然)に落っこちてしまったイノシシは助けられない。

森に人為的に返すことは出来ない。


地球規模で考えてみれば、人間が一番の害獣なはずなのに、

人間様の都合で、害と呼び、それを処分する。

大自然に暮らす動物は崇められ、近所の獣は嫌われる。っておかしいと思う。

人間が住まわせてもらっている土地と同じ"住民(獣民")だと思う。

ドラゴンボールの世界でも、クマも鳥もいろんな生き物が「人」という体(てい)で表現されて、みんな一緒に暮らしている。(まあ漫画だとして。。。。。)

あれはいい世界だよなあ。


同じ生き物として、害獣と名乗ることは俺にはできないような頭を持つようになった。

だから、こないだのイノシシのニュースはすごく関心を持ってしまったわけだ。

 山の獣 は本当に害獣なのか?!ゾウやキリンやタンチョウヅルと一緒の

野生生物なのではないのか?!






文ぶんブン


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 「文学が得意な人に成る様に」

なんて母ちゃんに言われた記憶がある。

自分の名前の由来についてだ。

なんでそんなことを聞いたのか?
学校で、先生に出された宿題か?
よく覚えていないけれど、
とにかく、「文彦」のフミは文学の文。文章のブンだよ!
なんて言われたことだけは覚えている。

母ちゃんの本棚にはたくさんいろんな本があった。
確かに読書好きだった記憶はある。

それに比べて親父の本棚はすごくちっちゃくて、「ビッグトゥモロー」という真面目な雑誌(だけど中にちょっとエロいページがあってこっそりよく読んでいた)と渓流釣りの本と"話し上手聞き上手"みたいな教育本みたいな本みたいなのがちょろっと並んでいる感じで。。。

今思うと、製薬会社の営業をやっていた親父は、人とのコミュニケーションが下手くそで悩んでいたんだろうなあ〜。。何て思い返してしまう。

全く持って俺と一緒じゃん!

てか俺が親父に似ているのか?!

「人の話を上手に聞くことができないと、話も上手になることはできない」

そんなことを誰かが言っていたような気がする。

そんな親父を見かねてなのか?!

俺の名前は母ちゃんが名付けた "文彦"になったのかもしれない。

なんつって。真相を知りたい訳でもないが。。。

国語も全然得意ではないし。。文学なんてそもそも。。。

そんなことより

もう少し、コミュニケーションは上手になりたいよなあ。。。

本を読めばもう少し、しゃべりも上手くなるのだろうか?!

聞き上手になって、話し上手にもなりたいよなあ。

気持ちよく人を笑わせてみたいし、まずは何より。。。。

人が話していて、気持ちよくなってもらうことが先決なのかな?

はて?はて?ほほ〜?

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