外遊びについて思うこと

 
子供の頃のような、感覚だけで『面白れえっ!』と思えるような外遊びを
試し続けてきて40も半ばになってしまった。
今までいろんな遊びを嗜んで来て

"外遊び研究所"

なんて雑誌連載まで掲げて10年やってきちゃったけれど我輩の場合、
プロにもなれちゃいそな「追求型」ではなくって、
一生素人的、広くて浅くて飽きっぽい「雑食型」でずっとやってきたわけで....。
でもそんなユルい姿勢だからこそSOTOKENも100回も続けてこれたんじゃないのか?
とも思える。
どんな「モノ」「ゴト」でもそうなのかも知れないが?
「外遊び」もヒトの性格それぞれこの2型に分かれるように思える。 

 追求するってことは、技を極める為の姿勢や継続があって、
やっとそのモノゴトを体得できるってわけで、誰にでもできることではない。
対し、我輩のような雑食型だといろんな遊びをただ広く浅く楽しむだけだから、
極めるなんてことは一生できやしない。でもそんな子供のような感覚型だからこそ、
面白く楽しめる面も充分にありえるとも思えるのだ。
その感覚こそがずっとSOTOKENで伝えたかったコトだったのかもしれないなあってのは、先日一緒に遊んだ友人カメラマン鈴木新と意気投合した話でもあって.....。


  そんな先日、そんな鈴木新とお互い初めてのテナガエビ釣りに出かけた。
とりあえずネットで調べた浅い知識で見よう見まねで試してみる。
アタリもポイントもいまいちわからないが、二人ともどーにか1匹を釣り上げることができた。魚類とは違うエビ釣り独特のアタリを味わった。それだけで盛り上がる。
次のポイントを探しに移動。
思い切って河口付近まで足を運んでみると水辺の抜け具合が広すぎて超絶気持ちが良い。
目の前には近未来的な羽田空港が淡くボヤけてはいるけど存在感がたくましい。
ど干潮の水際を歩いていると小さなボラっこが群れをなして岸際を泳いでいる。
その泳ぎに見惚れていると、突然「ボワンッ!」と水面に大きめの波紋が次々と現れる。
「これシーバス(の捕食)じゃない?!」
「やばいね」
「ルアー竿持ってくりゃよかったなぁ」
なんて話しながらもただ眺めているだけで十分に楽しい。
さらに今度は住宅エリアを散策してみると
「このエリアは殿町っていう(地名)らしいぜ?」
「なんで殿町なんだろ?」
さらに歩みを進めると、
「なんだよあれ?乳出し地蔵尊だって!ウケる!」
変な名前の神社を見つけてまた一つ笑う。
「なんとなく艶っぽいエリアだね〜」なんて笑っていると、
新が携帯で調べ始める。
新「特に理由はないみたいだけど、この付近は薬関係の実験会社が多いみたいだね。
動物実験の施設もあるっぽいよ?」
そんな会話が面白かったり....。

この時、二人で話したことは、
テナガエビ釣りって目的はあれど、エビ釣りばっかりってのじゃなくて、
その場その場で味わう土地勘も観察次第で面白いわけで....。
ぶらり旅的なテレビ番組みたいな嗜み、なんだけど。。。。
「水曜どうでしょう」なんて番組が流行った理由とおんなじなのではないかな?
あれは改めて思うところ「大人の外遊びの極み」な気がしてしまうのだ。

要は、目的(テナガエビ釣り)は明確でも結局は単なる
「遊び」
な訳で、そればかりに必死になるわけじゃなく、
もっと軽くてユル〜い感覚のまんまで、その全体の流れを"一つの遊び"として楽しむ....。
「テナガエビ釣り」だけが目的ではないのだ。
大きなテナガも釣ってみたいけど、そこが重要でもなく、、、と私は言いたい。 

 人生に置き換えたとしても、仕事ばかりじゃ辛くて仕方ない!
もっと人間らしく暮らして生きるためにも、
大変な作業もこれからもっと沢山あるだろうけれど、
遊びの感覚だけは絶対に必要なんだと我ながらに思う。
だから、これからも子供みたいに
遊んで生きたい!
自然のある外で。
それで逝きたい。なんつって。


死んだら自然に還してほしいな。 
お墓になんて絶対入りたくない、し、要らないとすらと思っている。

野生動物だって死んだら土に還るわけだから、俺もそうなって、
植物の栄養分になりたい。

粉末にして撒いてもらえれば、それは遺体遺棄罪にはならないらしい。

そんでもってもし生き返ったら、樹木になるのだ。
(本来の樹木葬ってのはそう言うことじゃないのか?)

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